皆さんお久しぶりです、SUNです。
先日とあるラブライブ!サンシャイン!!に本気な友人オタクから「サンシャイン!!見ませんか?」とお誘いを受けました。
一応自分は"ラブライブ!シリーズ"のオタクとしてやらせてもらっているんですが、サンシャイン!!はTVアニメの記憶がほぼリアタイ時の視聴で止まっていまして……。
再び見ることであの時はわからなかったことや気づかなかったことを知れるかもしれない、無印や虹ヶ咲、スーパースター!!を見るときにまた新しいものさしを用意できるかもしれないとは常々思っていたこともあり、いい機会でもありました。
という訳で2人で「ラブライブ!サンシャイン!!」の視聴会をしてきました。
(諸事情で1期のみになってしまいましたが)
そこで彼は”人はぶつかり合うことで相互理解が成される”と説きました。
「(言い争いや喧嘩等による)人のぶつかりあい*1」はラブライブ!シリーズの物語に置いてずっと扱われ、これに限らずとも小説やドラマ、アニメで(例えば特撮やバトル漫画、スポーツ漫画等において)人がお互いをより理解するための手段として長く使われています。
もちろん僕も長くオタクをやっているのでこの概念に触れていない訳がなく、彼の言葉そのものはすんなり納得はしました……が、彼が言うにはそれは南ことりでも同じだと。
仮に人が自分の譲れないものを傷つけられた時、例外なく(少なくとも彼のそれまでの人生においては)反発すると。
僕にはそれがどうにもしっくりこなかった。
例え自身の芯となるものを傷つけられたとしても、南ことりが争いの場に立つことがまるで想像できなかったのです。
だからこの時僕はこう言いました、
「争うのは南ことりのやることではないし、仮にそうなったら戦うのは南ことりじゃない。仮に南ことりの大切なものが傷つけられたとしても、彼女には支えてくれる人が居る。」と。
私は皆が決めた事、やりたい事にずっとついていきたい。道に迷いそうになる事もあるけれど、それが無駄になるとは私は思わない。皆が集まってそれぞれの役割を精一杯やりきれば、素敵な未来が待ってるんじゃないかな。
TVアニメ「ラブライブ!」2期 6話より
だけどこの時「南ことりが何故争いの場に立つことなく、かつ相手を尊重し合える優しさを持てるのか?」を上手く言語化できなかったのが少し悔しくて。
あれからまた少し考えてみて、自分なりに納得のいく結論が得られたのでここに報告したいと思います。
という訳で本題です。
結論から言うと「南ことりは争わずとも人が相互理解を成す術を知っていて、かつ争いによって得られる相互理解を自身が争うことなく理解に至った」からです。
皆さんご存知の通り、ことりちゃんには高坂穂乃果と園田海未という幼馴染がいます。
この二人は性格が真逆で、幼い頃から些細なことで喧嘩してきたことが様々な媒体で語られてきたことは周知の事実であると思いますが、ことりちゃんはこの二人の喧嘩を都度目撃し、そして収めていくことで二人の関係値向上に貢献してきました。
ことりちゃんは人の意図を汲むことに非常に長けた人間でありますが、その能力の成熟には争いに対して"中立"で居続けたという経験が影響していることは想像に難くありません。
つまり今現在の南ことりの価値観と哲学は"自身が争いの場に立つことなく、争いによって何が産まれるかを知ることができた"という経験によって成り立っていると言えます。
同時に彼女は人とぶつかることが相互理解に一番最適"ではない"ことを知っていました。
では相互理解に必要なことは何か。
彼女の言葉を借りるなら、それは「相手が生きてる」ことを知る事。
ことりちゃんに限らず、「生きる」ってシリーズを通して歌い続けられてる大切なテーマだったりしますよね。
生きるって 笑うことかな
(『Super LOVE=Super LIVE!』 μ‘s より )
I live, I live love live! days!!
(『未来の僕らは知ってるよ』 Aqours より)
生きてる!ってココロが叫んじゃう
そんな実感欲しいよねっ
(『TOKIMEKI Runners』 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 より)
輝きと生きてる 今生きてる
僕たちのユメとキセキ
(『LIVE with a smile!』 Aqours、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、Liella! より)
そもそも、人が互いをぶつけ合う時って何かしらの欲求が行動原理としてあると思います。
美味しいものが食べたい、行きたい場所がある、あの人と会いたい、もっといっぱい誉めて欲しい、もっと自分を認めて欲しい、あれもこれも欲しい……。
ぶつかり合いが相互理解の手段になり得るのって、それがこういった欲求をぶつけて自分が何がしたいのか、どうしてそういう生き方をしてるのかっていうのを互いに確かめ合う行為だからだと思うんです。
でも、相互理解が「生きてること」を理解するための行為なら、必ずしもぶつかることが最適解じゃなくて、もっと人が傷つかない優しい方法があるっていうのがことりちゃんの主張。
この結論は南ことりという人間の立ち位置と経験に起因するものだと思います。
だから僕は南ことりが争いの場に立つ姿がしっくりこなかったのです。
自分の手を汚さないという点で見れば凄くズルいけれど、そういう人との関わりかたをしてきたからこそ"相手の意図を汲み、それが指し示す未来をしっかりみて支えられる"という彼女の最大の強みと優しさが育まれたのだと思います。
だから今は自信を持って言えます。
"ぶつかり合いで得られる相互理解"を理解した上で、ぶつかり合い以上に相互理解を行える術を知っているから南ことりは争いの場には立たないと。
”南ことりが争いの場に立つ”という仮定が成り立たないのだと。
南ことりはズルくて、優しくて、そして強い。
どこまでもこうありたいと尊敬できる人で、そしてそのためには僕にはないものが沢山あって。
やはりこの子には敵わないなと感じた今日でした。
ヨキニハカラエミナノシュー
*1:優木せつ菜みたいな言い方をすれば「『大好き』の傷つけあい」